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 冷たい月の明かりが好きだ。

 僅か光だが、闇の中を照らすには十分だ。
 それに余計な物は照らし出さない。美しいものも醜い物も。
 


 その日、俺は痛む頭を押さえながら目を覚ました。
 昨夜、かわいい魔女たちとはしゃぎ過ぎた。
 おかげでひどい二日酔いだ。俺は、おぼつかない足取りで鏡の前に向かう。
「ひどいな」
 寝起きなのに既に疲れ切った顔を見て思わずつぶやいてしまう。
 数時間、ベッドの上でぼんやりと過ごした後、俺は、重い腰を上げて部屋から出た。
 外は暗かった。
 いやいや、決して一日寝過したわけじゃあない。
 この街ミネルバには昼がない。朝も決して来ることはない。空には暗い闇と星。そして月だけが浮いていた。
 一体、どうやって、時間を知るんだって?
 時計があるだろ。それに星と月の動きで時間を決めているから問題ない。
 外に出た俺は月を見上げ、だいたいの時間を把握した後、歩きだした。
 1時ってところだな……少し遅い昼飯にはちょうどいいだろう。
 常に夜だなんて不思議な所だろ? だが、俺は夜が好きだ。だから、こんな街も悪くない。
 さて、この街を作ったのは魔女だと言われている。
 街のどこからでも見える大きな塔に住んでるって話だ。俺も姿は見たことがない。
 この街の多くの連中はそうだろう。実際のところ魔女なんてやつがいるのかは本当かどうかわからない。
 そんな事はどうだっていい。俺には街があるってだけで十分だ。
 通りが賑やかになってきた。
 俺は店が並ぶ中で"フロム・タスク・ティルドゥーン"の看板を掲げる店の中に入った。
 店中は賑やかだ。悪魔やら種類の知れない魔物、獣人やらがウロウロしてやがる。
 普通の人間は迂闊に入れない場所だ。
 じゃあ、俺は大丈夫かって?
 心配ない。俺は悪魔だからな。
 「やあ、冴えない顔だな」
 バーテンダーのドイルが俺の顔を見るなりそう言った。
「昨日、若い魔女たちと騒ぎ過ぎた……」
「ほどほどにしとけよ。だいたいそんな金があるなら、ウチのツケも払ってくれよ」
「あっちもツケさ」
 俺はそう言って肩をすくめた。
「じゃあ、働いてツケを払ってもらうか」
 ドイルがそう言って店内を指差した。
「あん?」
「客だぜ」
 ドイルの指さす方に場違いな誰かがいる。視界に入ったのはテーブルに座る人間の若い女。
「誰だよ?」
「知らないね。見ない顔だし。だいたいこんな場所にくるタイプじゃないだろ」
「まあな。あれは"人間"だ」
「あんたに会いたいって」
「俺を? 何を言った?」
 ドイルは肩をすくめてみせた。
「何を言ったって聞いてんだよ?」
 ドイルは、俺の言葉を無視して洗い物を始めた。
「仕方がないな……」
 俺は、そう言うと椅子から立って女の座るテーブルに向かった。
「あんたかい? 俺に仕事を頼みたいってのは」
 そう声をかけると女は落ち着かない様子で俺を見る。俺は相手の返事も聞かずに前の席に座った。
「ちがうのかい?」
 相手を少し怯えさせたようだ。どうやら、悪魔の姿には慣れていないらしい。お互い様だ。俺も人間には慣れていない。
「人を探してくれるって聞いたから……」
「あんた、名前は?」
「ムーン。ムーン・アガシ」
 MOON……月か、いい名だ。俺の好きな単語だ。
「パパを見つけてほしいの」
 ムーンと名乗る人間の娘はそう言った。
「パパ?」
「いなくなってから2週間も経つの」
 ムーンは真剣な顔でそう言った。
「パパがいなくなるのは初めてじゃないけど、こんなに長いのは初めて。きっと何かあったのよ」
 俺は椅子に深く座りなおした。
「消えちまう事に心当たりはあるのか?」
 ムーンは首を横に振った。
「人が消えるのは大きく分けて二つだ。自分の意思か、他人の意志か」
「パパは、私を置いていなくなったりしない。絶対」
 ま、それは人それぞれだ。
 誰だって心変わりはするもんだ。だが、こういう場合、心変わりされた方は戸惑うだけだが。
 俺は、ムーンを見た。
 本当に場違いだ。この辺りには、人間も出入りする事はある。だがそういう奴らは、たいがい、地獄に落ちてもおかしくない連中。だが目の前の娘は、地獄とは、縁遠い。
「わかったよ……」
 俺のその言葉にムーンの表情が変わった。
「やるだけ、やってみる。だがひとつやってもらう事がある」
「何?」
「報酬だ」
 それならと、ムーンは袋をひとつ取り出してテーブルの上に置いた。この辺りに流通しているフェンニル硬貨だ。魔界でも通用する。
「これは?」
「パパが残していったの。でも普段、こんなのは家にはないんだけど。これを足しに……」
 申し分ないが、今回は別のものを頂く事にする。それは悪魔の本分だ。俺は内ポケットから書類を一枚取り出すとムーンに差し出した。
「そいつはいらない。代わりにこいつを」
 ムーンはきょとんとした。
「変わりにひとつ契約してもらうだけでいい」
 ムーンは書類を受取ると書かれた文面を読もうとしたが人間には読めない言葉だ。
「魂をもらおう。そいつが条件だ」
「魂? 私の?」
 ムーンはきょとんとした顔で俺を見た。
「そうだ。あんたの魂をもらう。それが条件だ」
 少し、考えた様子のムーン。そりゃそうだ。誰だって自分の魂を引き渡すなんてとんでもない事だ。これで、この娘もあきらめ……
「いいよ」
 おいおい、ちょっと待てよ。
「私の魂をあげる。ここにサインすればいいのね。何か書くものはない?」
 ムーンは、躊躇せず契約書にサインしようとしている。何を考えてるんだ? この娘は。魂だぞ?
「よ、よく考えた方がいいんじゃないのか?」
「パパが戻ってくるなら構わない」
「魂が取られる意味がわかってるのか?」
「ええ」
 嘘だ。絶対わかってない。
「書くもの……そうだ」
 ムーンは、料理のソースに人差し指を漬けると、インク代わりに契約書に自分の名前を書いた。
「あ!」
 悪魔の契約書にトマトソースのサインがにじむ。俺は、泣きたくなってきた。
「これで、契約成立ね。お願いします。パパを見つけてください」
 ムーンは深々と頭を下げた。しかし、そんなに下げられても……
「わかったよ。契約しちまったなら仕方がない。やってみる」
「ありがとう」
 ムーンが初めて見せた笑顔だった。魔物や悪魔がたむろするこの店には似つかわしくない笑顔だった。
 そいつは、忌々しくも俺が仕事を受けてしまった事を実感させてくれた。
 まったく……今日は、ツイてない。
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